教授も栄養失調
「食糧不足は事実である」と、教育調査員カール・C・リーブリックは、アチソンに報告した。
「子供たちは栄養失調の症状を見せている。体育の授業が制限されているのは止むを得ない。学校は生徒を家に帰して食事させるために授業時間を短縮している。授業は正午頃終わる。栄養失調は何も学校の生徒だけでなく、大学教授たちにもその症状が見られた」。
大学教職員の生活も、激しいインフレと物不足で容易なことではなかった。当時、教授の月給は200円。実質的な生計費は約340円。
小・中学校教員はもっと悲惨
小学校教師の月給はさらに低く、生きているのがやっとの有り様だった。
東京で1カ月約130円。地方ではもっと低く、ある県では、小学校教職員の月給は58円(1946年6月現在)で、教員たちが知事に出した要求額は月90円。
地方の学校教員の悲惨な有り様は、岩手県の教員が『讀賣報知』(1945年12月12日)に書いた投書の中に表われている。
「このまゝ放任して置けば教員はミーラになってしまう。新興日本の教育が重要視さるるとき全く寒心に堪えない。国民学校教員の下級なる者は月俸30円だ。それに臨時手当10円に勤勉手当3円、計43円である。労働者の日給にも劣るのである」(原文は旧かな)
月給43円では、当時の食品価格に照らしあわせれば、死に物狂いで食糧をかき集めなければならなかった。
「米は1升15円、鰯(いわし)1匹1円、卵1個1円10銭」。
この教員は、「児童と一緒に収穫した農作物を買った売ったで社会的に問題視される状態だ」と嘆いた。さらに「従来は如何に不平不満でも訴えることは不可能であった。『やれ赤化だ』『やれ悪化だ』と校長や上司の目が光る。勿論投稿など大の禁物であった」(『讀賣報知』名は、1942年8月5日から1946年4月20日まで続き、同年5月1日から『讀賣新聞』に改名する)。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。