敗戦とアメリカ兵
アメリカ兵を見たのは5歳の夏。
蝉、蜻蛉(とんぼ)、蛍、蝶々、蛙、蝮、青々とした田圃(たんぼ)、焼けば美味しい螽(いなご)。青大将に2回咬まれた夏。岡山県の美しい田舎に疎開していた時だ。
凸凹(デコボコ)の田舎道を、カーキ色のジープが黄色い砂埃を上げ、走ってきた。半袖のカーキ色の軍服を着た4、5人の赤ら顔のアメリカ兵たちが大声で叫び、ジープから夢のような貴重品、チューインガム、タバコ、チョコレートを両手で掴み、何度も何度も空高くばら撒いた。
裸足で、ボロの半ズボンで、鮒捕りをしていた私たち5、6人、文字通りの「餓鬼」は、歓声を上げ、網を放り出し、穴の空いたブリキのバケツも放り出し、見た事も無いジープの後を全力で追い、薄紫色の排気ガス、機械文明の匂いを胸1杯に吸い込み、必死になって宝物を拾い漁った。
アメリカ兵たちはジープを停め、笑いながら私たちの写真を撮っていた。
チョコレートを口一杯に頬張り、チューインガム、タバコをポケットに溢れるほど詰め込み、さらに両手に余るほどの戦利品を家に持ち帰り、意気揚々と父親に見せた。
「乞食!」と怒鳴られた。
子供ながら、食糧不足で痩せ細った父の顔に走った「惨めさ」「寂しさ」を見逃さなかった。
戦後日本の姿
あれから60年。
「経済復興」というスローガンを掲げ、銭のためにはアメリカに苛められても、無視されても、公に侮辱され、利用されても、ひたすら「富」の蓄積に涙ぐましい努力をし、やっと世界1、2位の金持ちになった。日本はアメリカの「乞食」として生きてきたのか。
豊かな日本はアメリカに諂う精神状態から抜けきれない。上目遣いで卑屈な生活を続けると、それが日本の「面」に出るのだ。
日本国民は、第2次世界大戦中、アジア・太平洋戦で、敵軍米兵が尊敬の念を持たずにはいられないほどの「国を愛する心」と「誇り」に支えられた勇敢さで死闘を繰り広げ、数百万人の犠牲者を出し、敗れた。
日本国歴史上、前代未聞の敵軍による「日本占領」が始まる。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。