映画『JFK』
1992年に「JFK暗殺記録収集法」という法律が制定されました。なぜ、その年だったのか。皆さん、覚えておられるかもしれませんが、ハリウッドの有名な監督、オリバー・ストーンによる『JFK』という映画です。
私はオリバー・ストーンの映画が好きで、いろいろ観ています。その彼がケネディ暗殺について、3時間の映画を作りました。それが1991年です。あれは大ショックでした。なぜなら、アメリカ国民はケネディのことを絶対に忘れていなかったからです。その映画は非常に説得力のある物語で、3時間じっくり見せられます。国民は盛り上がり、「早くケネディ暗殺の調査公文書を出せ」という運動がものすごい勢いで広がりました。
下院、上院、日本でいえば参議院、衆議院にあたる議会が突き上げられ、1992年に法律が通りました。これで順番に文書が出てくるはずだったのですが、肝心の数十ページが出てこない。いや、出さないのです。
バイデン大統領は1992年当時、上院議員でした。その頃のバイデンさんは面白い人で、自由奔放に、時には無責任なことも言って、それでも周りから好かれていました。一緒にワーッと笑えるような存在だったのです。その彼ももちろんこの法律に賛成票を入れました。
ところが、大統領になった途端に「ダメ」とやっている。「おまえ、OKと言っただろう」という感じです。若い頃はJFK暗殺記録の公開に賛成だったのに、大統領になったら自らの政治信念を投げ打った。もちろん投げ打ちますよ。命のほうが大切ですから。
報道の威力
改めてケネディ暗殺を振り返ってみましょう。1963年11月22日、テキサス州ダラス。ケネディ大統領が自動車の後部座席で手を振っていたとき、ライフル銃で頭部を撃たれました。この衝撃はアメリカだけでなく、世界にもリアルタイムで伝えられたのです。
私が特に覚えているのは、2発目の銃声が響いた瞬間、ジャクリーン夫人が夫に覆いかぶさった場面です。「この女性は勇敢だ」と思いました。彼女に弾が当たらなかったのは不思議なくらいです。
そして、ちょうどその日、日本とアメリカで歴史上初めて宇宙衛星がつながり、宇宙放送をやろうという予定がありました。その朝、テレビでは「テストテスト」と試験放送をしていたのです。ガーガー、ズーズーと雑音の中にいろんな映像が映っていた。その画面が突然切り替わり、ケネディ暗殺のニュースが飛び込んできたのです。あれは日本でも衝撃的でした。その朝、テレビを見ていた日本の人たちは、あの瞬間のことをよく覚えているはずです。
ケネディさんは日本でも人気がありました。話はうまい、見た目はハンサム、若々しさがあふれていました。今のバイデンさんとは相当違います。同じ民主党ですがね。だからこそ、世界中の外交関係者、大統領、首相たちは大ショックで、次の言葉が出なかったのです。
西鋭夫のフーヴァーレポート
ケネディ神話の崩壊(2022年2月下旬号)-3
この記事の著者

西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。