
From:岡崎 匡史
研究室より
日本帝国は、広島・長崎の原爆で廃土と化す。
1945年8月14日(火曜日)、昭和天皇臨席の御前会議を開き「ポツダム宣言受諾」を決定した。
翌15日(水曜日)正午、昭和天皇(1901〜1989年)の肉声によって「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ・・・」から始まる文字数802の「大東亜戦争終結ノ詔書」(「玉音放送」)が放送された。
昭和天皇は「敗戦」という言葉を使われずに、「萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」と述べられた。
食糧メーデー
8月15日の「玉音放送」のほかに、もうひとつの玉音放送が存在する。
それが、1946年5月24日(金曜日)の「第二の玉音放送」である。
なぜ、二つ目の玉音放送が存在するのか。
それを理解するには、当時の状況を振り返る必要がある。
日本人は、空腹に耐えかねていた。草しか食べておらず、糞便の色まで草色になっている者までいた。食糧を配給するよう嘆願が相次いでいた。
すきっ腹に入り込むように、勢力を伸ばしていたのが日本共産党。
腹ぺこの人間にとって、食い物のためならイデオロギーは関係ない。空理空論より目の前の食べ物こそが、正しさを証明してくれる。
天皇家を倒たおして人民政府の樹立を訴える日本共産党は、書記長の徳田球一(1894〜1953年)を筆頭として「食糧の人民管理」を主張。
1946年5月19日(日曜日)、共産党の徳田を旗印にして「食糧メーデー」が実施された。25万人の群衆が皇居前に集まり、「憲法より飯だ」と叫ぶ。
励ましの言葉
昭和天皇は、国民の困窮に心を痛める。
5月24日(金曜日)、昭和天皇は励まし御言葉を国民に寄せる。昭和天皇の声がラジオで流れるのは「玉音放送」に続き二度目だ。
前日に放送内容は収録され、24日の正午、午後7時、午後9時と三度放送された。
祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。戦争の前夜を通じて、地方農民は、あらゆる生産の障害とたゝかひ、困苦に堪たへ、食糧の増産と供出につとめ、その努力はまことにめざましいものであつたが、それにもかゝわらず、主として都市における食糧事情は、いまだ例を見ないほど窮迫し、その状況はふかく心をいたましめるものがある。これに対して、政府として、直ちに適切な施策を行ふべきことは言ふまでもないのであるが、全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがひに助けあつて、この窮況をきりぬけなければならない。戦争による諸種の痛手の恢復しない国民にこれを求めるのは、まことに忍びないところであるが、これをきりぬけなければ、終戦以来全国民のつゞけて来た一切の経営はむなしくなり、平和な文化国家を再建して、世界の進運に寄与したいといふ、我が国民の厳粛かつ神聖な念願な達成も、これを望むことができない。この際にあたつて、国民が家族国家のうるはしい伝統に生き、区々の利害をこえて現在の難局にうちかち、祖国再建の道をふみ進むことを切望し、かつ、これを期待する。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・西鋭夫、岡﨑匡史『占領神話の崩壊』(中央公論新社、2021年)
・宮内庁編『昭和天皇実録 第十』(東京書籍、2017年)
この記事の著者

岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史

日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。