殉死
切腹という行為は、戦場での敗北や失敗だけでなく、何らかの過ちを犯した場合や刑罰などとしても行われてきました。しかしこれらの切腹とは一線を画す切腹もあります。それは殉死です。亡くなった主君の後を追い、臣下が自らの命を絶つための切腹です。
1912年9月13日、明治天皇の国葬が行われた日、乃木希典が夫人と共に自決しました。このニュースに日本中が大きな衝撃を受けました。日本国民は日本の神髄、武士としての美学を見たのです。
乃木希典
乃木の生き方には揺るぐことのない一本の筋が通っておりました。彼は実はこの時よりもずっと前に自害したかったようです。それは西郷隆盛たちと戦っていた時のことでした。乃木の部隊の軍旗を西郷側に取られてしまったのです。その軍旗は明治天皇からいただいたものです。乃木はそこに大きな責任を感じたのです。武士としての失態を恥じた彼は、「あまりの屈辱のために生きていられない」と考えたのでしょう。
乃木はそこで明治天皇の前に出て、自分の書いた文章を泣きながらに、朗々と読み上げました。完全に死ぬつもりでおりました。
しかし明治天皇は「乃木よ、おまえがそんなに死にたければ、私が亡くなった後に死んだらいい」と、そのような趣旨のことを言われました。そのために乃木はずっと生きてきました。日露戦争のあの有名な203高地での死闘でも責任をとって死ぬことはせず、生き続けました。日露戦争の後は学習院の校長も務めました。
自刃
この乃木が明治天皇の国葬の日に自刃したのです。それも夫人と共に行った。これはまた特別な話です。ご夫人もいわゆる、筋の通った人だったのです。乃木とずっと一緒に生活されていて、もう乃木を分かっていて、夫が切腹する時に「私も自刃します」と言ったのでしょう。
この時の様子については乃木希典の歴史講座で話しましたが、ご婦人の方は3回、自分で胸を刺されております。しかし力がなかったので、ひょっとしたら着物の上から心臓まで届かなかったのかもしれません。しかし4回目はその短刀が心臓にしっかりグサッと刺さっていました。
ここからは憶測ですが、あれは乃木が自分の腹を切った後、妻が死ねないのを目の前で見ていますから、その短刀を胸に当てて、奥様の体を畳の方へぐっと押されてグサッといった感じでしょう。畳の上は血の海になりました。
日本の魂
日本人はこの乃木の生きざまに大きな感銘を受け、そこにいわゆる「日本」を見たのです。日本の魂、日本の神髄を見たのです。ですから明治の男で「さん」付けで呼ばれるのは乃木さんと、もう一人西郷さんだけです。あとは誰も「さん」付けで呼ばれません。それほど日本国民は乃木と西郷に親しみを感じたのです。
この乃木とご婦人を祀った神社があります。乃木神社です。そこに実際に行きました。殉死された四畳半のお部屋はまだ残っております。乃木が殉死したというのは「ここだ」と誰もがわかるわけです。「ああ、乃木さんはすごい人である」と、日本国民は乃木希典を絶対に忘れないでしょう。
西鋭夫のフーヴァーレポート
武士道と切腹(2020年11月下旬号)-6
この記事の著者

西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。