土佐藩士たちの激昂
堺という大きな港町にフランスの軍艦が入ってきました。侵略ではありません。フランスと日本との間で結ばれた日仏修好通商条約(1858年)にもとづく入港です。
ところが上陸したフランス水兵ら十数名が大問題を引き起こします。町で飲み食いした後、町の女性たちに手を出して触ったり、面白がったりしたわけです。レイプされたわけではありませんが、当時はほとんどの日本人が外国人に慣れていませんから、女性たちは「きゃー、きゃー」と怖がっておりました。
そうするとそこを守っていた土佐藩の侍たちが、「おまえたち、もう町から出ろ。船に帰れ」と命じました。もちろん相手は酒に酔っているので聞く耳を持ちません。土佐藩士たちも「この野蛮人め」と思っているわけですから、両方とも感情を露わにして大げんかを始めます。
水兵たちがこれはたまらんと、大きなボートを漕ぎながら戦艦に戻っていく中、侍たちが逃がせば良いものの、銃でガンガンと撃ち始め、11名を殺しました。
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落とし前
大騒動です。フランスは当時、大帝国を築いておりました。それはイギリス帝国、アメリカ帝国と並ぶほど強大なものでした。それで「土佐のやつに責任を取らせろ。明治維新の政府、おまえたちは野蛮人か」となりまして、切腹に追い込まれました。では、誰が切腹するのか。神社にてくじ引きを行い、20人が選ばれました。
フランス代表は提督らがバーッと椅子に座って、切腹の見物です。「こいつら本当に腹を切るのか」と勘繰っていたのではないかと思います。しかし土佐の男たちは、堂々と切腹を始めました。そして、介錯する男には「すぐに首を落とすなよ」と言いました。
何をしたのか。土佐藩士たちは腹を切った後、ドロっと出てきた小腸を自ら掴んで、刀で小腸をビャッと切るのです。皆さん、この男は生きているのですよ。それをフランスの将校たちに向けてバッと投げるわけです。それを次々にやって、もうフランス人たちは耐えられずに、逃げ出すは、吐くはで大変な状況となりました。そして11人目になったとき、フランスの提督が「もうやめろ、もう十分だ」と止めました。
列強諸国の日本観
死ぬことを覚悟をしていた残りの男たちは助かりましたが、このニュースは世界中に広がりました。「日本にはそんなやつがいるのか。あんな所に攻め込んだら俺たちは絶対殺される」と誰もが思いました。
切腹を目の当たりにしたフランス人は、日本の侍たちを簡単に服従させることは出来ないと思ったでしょう。出来ないどころか、上陸したら殺されると考えたに違いありません。当時の欧米列強はアジア各地を侵略し、占領していきましたが、ここまで抵抗する人々には会ったことがなかったのでしょう。
徳川時代は封建的と言われておりますが、その捉え方は改めなければならないと思います。鎌倉からずっと続くこの武士の文化、レヴェルの高さは桁違いです。植民地にするのだったら最初にイギリスが入ってきてやっていますよ。しかしイギリスも止めて、フランスも米国も断念した。こんな国を植民地にするのは無理だ。やめておいた方が良い、と思ったのです。
西鋭夫のフーヴァーレポート
武士道と切腹(2020年11月下旬号)-4
この記事の著者
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西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
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1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。