三島事件
今から約50年前の1970(昭和45)年11月25日、日本を代表する作家、三島由紀夫(1925〜1970)が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地にて割腹自殺しました。三島は自身が隊長を務める「楯の会」のメンバーとともに同駐屯地の東部方面総監部に押し入り、益田総監を拘束。そして憲法9条の破棄を呼びかけ、自衛隊に決起するよう演説を行いました。その後、楯の会の隊員1名と共に割腹自殺したのです。
三島由紀夫とは如何なる人物だったのか。そして当時の日本は三島の行動をどのように受け止めたのか。西にとっての三島はいわば「先生」の世界の人物でした。私はそういう世代です。1970年の夏に私はワシントン大学の博士課程に戻りましたが、11月に三島先生のニュースがラジオでも、テレビでも流れてきました。
私はもうショックを通り越して、涙も出ない状態でした。彼は市ヶ谷で割腹自殺をされますが、その市ヶ谷の自衛隊のすぐ近くに曙橋という所がありまして、私はそこのアパートに住んでいたことがあります。ですから毎日のように自衛隊の前を通っていました。
割腹自殺
日が経つにつれて、三島先生の自殺の情報がどんどんと流れてきました。映像も見ました。鉢巻きをして「楯の会」の制服を着ておられまして、そこの自衛隊の大将のお部屋で上着を脱ぎ、短刀で割腹自殺です。
右手に刀を持ち、左の下腹をグサッと刺して、ぐっと横一文字です。そうすると「楯の会」の若い、早稲田の学生が後ろから三島の首を切り落として、俗にいう痛みを止めてやるはずだったのです。ところが彼は二度刀を振りますが、もちろん超緊張しているのと、やったこともありませんから首に当たらないのです。肩に当たったり、頭に当たったりします。それでほかの「楯の会」の学生が代わって首を落としました。しかし、完全に切り落とすというより首の皮が1枚残っていました。「楯の会」の学生も割腹自殺をしました。
衝撃
日本中が壊れたように割れました。私はシアトルにおりましたが、私たちはどう反応して良いか分からない状態でした。学生たちは「三島は極右だ」と言っていましたが、そう言いながらそのほとんどが三島先生を尊敬しており、敬愛しておりました。私たちの英雄の一人だったのです。その方が切腹をされる訳です。どう反応したらいいのか分かりません。
1970年に切腹です。三島由紀夫はこのことで永遠になりました。あと5、6年ご健在であったらノーベル文学賞を受賞していたでしょう。それほどの男が自衛隊員に向かって「立ち上がれ」と呼びかけ、切腹です。
しかし当時の自衛隊にはそのような意識はほとんどなかったように思われます。私たちが後になって話していたのは、「三島先生があと10年待たれたら、自衛隊の意識も変わっていたろう」ということでした。
この切腹は大変な衝撃を与えました。日本には切腹について長い歴史がありますが、豊かになった日本ではすでに忘れ去られておりました。もちろん、その言葉は誰もが知っておりますが、それはすでに歴史の中のものとなっておりました。それを1970年、日本のど真ん中で三島先生は行ったのです。
西鋭夫のフーヴァーレポート
武士道と切腹(2020年11月下旬号)-1
この記事の著者
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西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
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1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。