お茶
大航海時代はポルトガルとスペインが世界の海を牛耳っておりましたが、その権力は次第に大英帝国へと移っていきます。
イギリスもまた中国との貿易を重視しておりました。「お茶」を輸入するためです。中国は当時、銀本位体制でしたので、支払いは銀で行われておりました。英国は重度のお茶中毒に陥っておりましたから、どんどんと中国のお茶を仕入れました。中国との貿易がなければ、英国における紅茶文化は生まれなかったと思います。
イギリス人はまた、そのお茶を飲むための美しい器も求めました。それで中国産の陶磁器でできた茶器に目をつけました。当時の英国で「チャイナ」といえば、この茶器を意味するほどの人気でした。
アヘン
ところが茶器は高いのです。そのためイギリスはあちこちで海賊行為を繰り返し、世界中の至るところに植民地を作りました。そこでお金を稼ぎ、中国のお茶に注ぎ込みました。お茶を手に入れたら、出来るだけ早い船でロンドンに戻ってこいと、そんなことをやりました。お茶の季節になり一番最初に入ってきたお茶は「新茶」として非常に高い値段が付きました。それでも求め続けたわけですから、お金が続きません。ハッと気がついた時にはお金がなくなっておりました。
「さあどうしよう」というとき、植民地のインドにてインド人たちがアヘンを作っていることを発見しました。小さな畑でケシ、これを英語でオピウム(opium)と言いますが、それを栽培しているのです。見たことがありませんから「これは何だ」と聞いたら「これはオピウムで、ここをこう削ると乳液が出てきますので、これを乾かして中国に持っていくと高く売れるのです」という答えが返ってきました。
大英帝国の資金源
そこからです。イギリスはこのアヘンを大量に栽培し、中国に持っていきました。お茶を運ぶ船に、まずはインドで採れたアヘンをどっさりと積んで行くのです。そうすると、中国ではもう値段は聞かずに「買いたい、買いたい」と次々とお客さんがおりますから、大儲けです。それらを売って、今度はお茶をぎっしりと積み、英国へ帰っていったのです。
当時の清国は大金持ちの国です。自給自足の状態です。すなわち「よそのものは欲しくない、うちに全部ありますよ」と、そんな状態でした。しかしアヘンは別でした。このアヘン貿易により、お茶で出来た赤字が、黒字へと変わっていきました。このお金が大英帝国を支えていくのです。
西鋭夫のフーヴァーレポート
黄金と日本(2021年3月下旬号)-4
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。