幼少期の記憶
日本がアメリカに占領されていた時代、私はアメリカからやってくる映画に夢中になっておりました。その時の影響は現在もなお残っております。私はいまだにハリウッド映画やディズニーが大好きなのです。
ハリウッドやディズニーと他の映画では何が違うのか。この間も少しNetflixとかAmazon Primeで、いくつか日本の映画を見てみましたけど、日本の映画の多くはおそらく日本人だけにアピールするような感じです。日本人の特別な感性、情緒、雰囲気に訴えるものが多いように感じました。
しかしハリウッドなどの巨大な映画産業が手がける映画は、ある特定の国や地域の人々にだけ理解されるものというより、全世界の人間が持つ共通の感情や感覚を刺激するものが多いように思います。
アクションが過剰な映画もありますけれど、世界でヒットする映画というのは誰にでも理解可能なアクションがあり、ロマンスがあり、悲劇があります。全ての要素がちょうど良いバランスのもと成り立っているのです。それを私は小学校の時からずっと見せられてきました。簡単には忘れられません。
文部省による映画教室
では、戦後間もない頃に誰がどのようにその映画を見せたのか。一つは文部省です。文部省がこれこれと子どもたちに見せるべき映画を選択し、町の小さな劇場がその映画を放映しました。
小学校2、3年生の時だったと思いますが、先生の引率で劇場に行き、みんなで気をつけをして、きちんと座って映画を見ました。映画が流れると、皆さんワーっと拍手をしていました。
娯楽といえばそのくらいです。その映画が脳の栄養として育てられると、大人になっても忘れられません。ですから、私は中高、大学、それからアメリカに行ってもずっとハリウッド映画が大好きでした。
世界の黒澤
アメリカでも私はたくさんの映画を観てきましたが、50年代に作られた黒澤明の映画は見事でした。ほとんど白黒でしたが、アメリカの若者たちの間で大ヒットしました。当時はベトナム戦争がだんだんと過激になってきた時ですが、大学の近くにあった小さな劇場では学生ボランティアが主催する日本映画祭のようなものが行われておりました。
『七人の侍』や『羅生門』、『用心棒』などを上映しておりました。三船敏郎さんがスクリーンに出ると、若者たちは立ち上がってスタンディングオベーションです。皆さん、「ミフネー!」とか言っていました。日本はそれほど素晴らしい映画を作ったのです。
ただし、映画が制作された時期については注意深く見ておいた方が良いでしょう。なぜなら、戦後間もない頃に作られた映画はGHQによる検閲の対象でもあったからです。たとえば、力の強い大名や侍一人が国や民を治めるような、そんな映画はダメでした。「何を考えているのだ、おまえたち。おまえたちはそれで戦争をやったのだろう」と言われました。むしろ、皆さんで見て、とにかく「ワハハ」と笑う娯楽映画が好まれました。
西鋭夫のフーヴァーレポート
ハリウッドとプロパガンダ(2020年7月上旬号)- 5
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。