デカセギ
ドミニカへ渡った移民たちの惨状をお伝えしましたが、日本はそれからしばらくして、高度経済成長を実現します。その結果、今度は労働力が足りなくなりまして、積極的な移民獲得政策に転じます。移民を送り出す立場ではなく、移民を受け入れる側になったのです。1980年代の後半の話です。
日本で働くことを希望する外国人は大勢いました。「デカセギ」というカタカナ言葉が世界でも有名になりました。当時の日本政府は南米からの移民、特に過去にブラジルやペルーに渡った日本人移民の子どもたちや孫の世代を優先的に受け入れました。外務省の当時の記録を確認してみますと、1990年の日系ブラジル人の受け入れ数は、6万3,000人となっております。
絆か、労働力か
日本は南米に住む日系人との絆を大切にしようとしたのでしょうか。それとも労働力を重視していたのでしょうか。この政策を考えた時はどちらもあったと思います。私たち日本人は純血主義でして、日本人の血が流れていたら、やっぱりその人たちを無視することはできないわけです。
ただ、現実問題として労働力不足に陥っておりましたから、来てもらわないと困るわけです。それで、特にブラジルで暮らす日系2世や3世の方々たちにぜひ来てくださいとお願いしました。そして特別扱いで「まずは5年間ほど日本にいてください」「その後も、もしいてくださるなら特別な身分を作りますからずっといてください」と、受け入れ体制を作っていったのです。
日本も好景気でしたから仕事場はたくさんありまして、働けば働くほど豊かになっていきました。日系ブラジル人たちの数もどんどんと増えます。
バブル崩壊
しかし、日本経済がパンっと弾けたとき、最初にクビになったのは日系人たちでした。デカセギのお兄ちゃん、お姉ちゃんたちです。「おい、なんでそんなことをするのか」という世界です。
それだけではないですよ。5年間はいていいよ、と言っていましたがこれを止めて、「皆さん、今ブラジルに帰るのだったら、飛行機代を出してあげますよ。しかし3年間、日本に戻れませんよ」としました。「俺たちは日系の孫やひ孫を使い捨てにする国民か」ですよ。私は頭にきましたが、日本とはそういうことをする国なのです。
リーマンショックの時には、再度、同じようなことが起きました。日系ブラジル人たちが大きな影響を受けましたが、帰国する場合は1人当たり30万円の帰国支度金をあげましょう、としました。それを受ける条件は、「3年間は日系人としての定住資格を出さない」ということです。
西鋭夫のフーヴァーレポート
日系移民の悲劇(2020年5月上旬号)- 10
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。