南国のパラダイス
独立を果たした日本は移民政策を復活させました。1952年にはブラジルへ、1954年にはパラグアイ、そして1955年にはアルゼンチン、1956年にはドミニカへと日本人を送り出しました。
皆さん、驚くかもしれませんが、カリブ海のドミニカ共和国までもが日本人を受け入れました。この背景には何があったのか。親日というわけではありません。ドミニカが直面していた政治的理由によるものです。
ドミニカが位置するのは小さな島ですが、そのうちの半分がハイチ、半分がドミニカとなっております。ドミニカの面積は九州よりも少し大きいくらいですが、島を二分するハイチとの間で、いつも大げんかをしておりました。ドミニカ側は、「ハイチの悪い奴らが国境を越えて入ってくる」と文句を言っておりましたが、ハイチも同じような文句を言っておりました。
日本人移民の役割
そんな時、ドミニカ政府が妙案を考えます。それは、日本政府が送り出している移民についてです。「今ブラジルとかアメリカに移民している日本人は何かすごいらしい。よく働いて、真面目。さらには嘘もつかなくて、誠実だ」と聞きつけたドミニカ政府は、だったら「日本人を呼ぼう」ということになり、日本政府にお願いすることになりました。
当時の日本は、食糧難や人口問題のため、積極的に移民先を探していたので有難い話だったのでしょう。ドミニカは「南米のパラダイスですよ」「大きな土地をあげますよ。好きなものを作ってくださいね」と、そんな宣伝文句で移民を募り、どんどんと送り出してきました。ほとんどが家族同伴です。
しかし、いざドミニカに着いてみるとどうでしょうか。連れて行かれたのはハイチとドミニカの国境あたりで、石はごろごろ、あるところでは地面が塩害で白くなり、何も育たないところでした。日本人は大ショックです。それで「話が違うではないか」と言ったら、ドミニカ政府は「ぐうたら言わず、そこでしっかり働け」とのこと。ドミニカは真面目な日本人を数多く呼んで、いわゆる国境の防波堤としたのです。
訴訟
日本国内でも大問題になりまして、マスコミもそれを追求し、外務省も突き上げられました。しかし外務省は「わしゃ知らん」という立場を貫きます。それで訴訟にもなりました。これは延々と続いて、最終的には最高裁から「時効が切れ」と言われてしまいました。
大昔の話だとお思いでしょうが、小泉総理の時です。それで小泉さんが「国がしっかりしていなかったので、ああいうことになってしまいました。出来るだけ補償致します」と言って謝罪しました。具体的な補償の中身は私は分かりませんが、とにかく外務省は当時「行け、行け」と送り出した側でしたが、「わしゃ知らん」を貫き通したわけです。
西鋭夫のフーヴァーレポート
日系移民の悲劇(2020年5月上旬号)- 9
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。