第二の鎖国

by 西 鋭夫 August 22nd, 2024

食糧難

日本帝国が海外の植民地に移民を送っていた背景には、人口増と食糧難という国内事情がありました。

ところが、戦争に負けたことで、海外にいた日本人たちが一斉に日本本土へと帰ってきたのです。その中には移民たちもいましたし、兵隊さんたちもいました。その数はおよそ600万人といわれております。

当時の日本に、600万人を受け入れる余裕はあったのでしょうか。都市について言えば、ほとんどが焦土と化している状態です。しかも敗戦からの4年間で、結婚、出産ブームがきまして1,000万人、ほど人口が増えております。

食糧は圧倒的に不足しておりました。この時代は基本的には自給自足ですが、それができる人はごくわずかだったと思います。非常に貧しい国でした。現在の若い世代の方々は想像しようと思っても出来ないと思います。今の日本はどこに行っても食べ物はありますし、コロナで「もう終わりだー」と言っても、スーパーは開いていますし、まだまだ物が溢れています。

当時は、本当に何もありませんでした。お店はありましたが、菜っ葉が少し、細い大根が5、6本並んでいるというような状況でした。

GHQ

敗戦後にやってきたマッカーサー率いるGHQですが、この状況で良いと思っていました。「日本を強くするとまた面倒なことになるから、これでちょうどよろしい」ということです。

急激な人口増に見舞われた日本ですが、マッカーサーは移民を認めませんでした。日本人が海外に移住するということは、マッカーサーからすると日本の植民地主義の復活と考えたのでしょう。「おまえたち、日本人をブラジルに送って何をたくらんでいるのだ」ということです。ビザももちろん出しません。

外務省も完全に牛耳られています。吉田茂は当時、外務大臣で、その後、総理大臣になっていきますが、彼はもう米国の言うことは聞くしかありませんでした。「聞かない」という選択肢はなかったのです。

ですから、当時の日本はいわば鎖国時代のようなものだったと思います。これが占領期間中、すなわち7年ほどの間、ずっと続きました。日本人は基本的には誰一人も海外に出てはいけません。「おまえたちには出る理由もないし、金もないし、日本国内だけだ」というわけです。

 

そのたがが外れたのは、1952年、サンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本が独立した時でした。日本はすぐに移民政策を再開させます。人口増加に伴う貧困を、再び移民という手段によって解消しようとしたのです。戦前と同じ発想です。外務省による管理のもと、1952年にブラジル、1954年にパラグアイ、1955年にアルゼンチン、1956年にドミニカへと、日本人の移民が再開しました。

 

西鋭夫のフーヴァーレポート
日系移民の悲劇(2020年5月上旬号)- 8

 

 

この記事の著者

西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

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西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。