唐行さん
「唐行さん」のことを知っていますか。私は中学、高校で教えてもらいましたが、今の若い人たちはほとんど知らないかもしれません。当時、私は学校で習った後に、家に帰って母に「お母ちゃん、この唐行さんとは何だ」と聞いたら、「何でおまえはそんな本を読んでいるのだ」と叱られた覚えがあります。
唐行さんのことは教科書にしっかりと記述されております。日本史にビタッと貼り付いているくらいです。でも、それを表に出さないだけなのです。唐行さんのことについてきちんと説明できる人がいないのか。教員もまた教えられてきていないのか。知っていても、それを語るのが恥ずかしいのか。書かれてはいるけど、ちゃんと教えられていないように思います。
しかし、移民について考えるのなら、その部分を抜かしてはいけません。敗戦後に彼女たちがどうなったのか。日本に戻って来ることができたのかどうか。様々なケースがあると思いますが、その歴史研究もまだまだでしょう。
引揚船内でのこと
満州ですが、日本の植民地政策がうまくいっていれば、移民した日本人も幸せに暮らせていたと思います。しかし、そうはなりませんでした。日本人が入っていった土地はそもそも中国人たちの土地でした。さらに日本は大戦で敗北しました。海外で敗戦を迎えた人々は、そこで自分の土地を失ったのです。日本に向けて、多くの人々が命からがら戻ってきました。
当時の満州には100万人から200万人の一般市民がおりました。軍隊に関係ない、俗にいう商人や農業従事者たちです。そんな時に日本が敗戦する訳です。中国や朝鮮半島から「今すぐに出て行け」「お前らの土地じゃないだろう」と言われ、追い出されました。時に迫害の対象ともなりました。
私は実際に船に乗って帰ってきた人たちに話を聞いたことがありますが、悲惨な話をたくさん聞きます。例えば、満州で一般人をいじめたり、威張り散らしていたりした将校やボスたちが、舞鶴や津軽へ帰って来る船の中で、海に落とされたりしているわけです。それを教えてくれたのは、当時15~16歳の時にそれを目撃したおじさんです。「本当にそんなことをしたのですか?」「そんなことをしたのって……当たり前だろう。復讐だ」と言っていましたよ。
引揚船を待つ人々(満州)
残留孤児
日本に帰りたくとも帰れなかった人たちも大勢いました。残留孤児という言葉がありますね。残留孤児というのは満州で生まれた日本人たちのことです。生まれてまもなく、1歳とか2歳の時に、両親が亡くなったり、一緒に連れて行けなくなったりして、帰国できなくなった子どもたちです。お母さんが「お願いしますから預かってください」と言い、中国人が中国で育てていくという形です。日本語は分からないけれど、中国語を話しております。
今から30、40年前だったでしょうか。父母と再開するという、ドラマチックなテレビ番組がありました。実況放送もあったと思いますが、多くの日本人が涙を流しました。戦争に負けて一番悲惨な目に遭ったのは誰なのか。私たちは歴史の真実から目を逸らすことなく、しっかりと学んでいく必要があると思います。
西鋭夫のフーヴァーレポート
日系移民の悲劇(2020年5月上旬号)- 7
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。