西欧社会の横暴
17世紀から18世紀ごろのアジアを振り返ってみますと、清国なども鎖国をしておりました。外の世界との行き来を厳しく管理していたのです。
しかしその鎖国は、イギリスとフランスによってズタズタにされました。第一、第二次アヘン戦争です。お茶を好んで飲んでいた中国人たちは、西欧社会からアヘンを持ち込まれ、「アヘンを合法にしろ」「お茶を俺たちによこせ」と強要されました。こうして、お茶とアヘンの取引がはじまります。
加えて「鎖国をやめなさい」と言われ、労働力として活用するので中国人を国外に出しなさい、と要求されました。中国は戦争に負けた側ですから、当然、従わざるを得ません。イギリスやフランスが中国人を奴隷として使い始めました。黒人ではない、新たな奴隷として、彼らはクーリー(苦人)と呼ばれました。
皆さん、なぜアフリカやアメリカにチャイナタウンがあるのか分かりますか。しかもその多くは海岸線上ですね。すなわちチャイナタウンとは、ヨーロッパの宗主国らがクーリーたちを使って植民地開拓を行なっていた証なのです。
移民政策黎明期
ハワイ移民が日本の歴史上、おそらく公式な形では初の「移民政策」として位置付けられると思います。その後、少しの間隔をおいて、ブラジルへの移民政策が行われました。ブラジルには今でも多くの日系人がいらっしゃいますが、彼ら、彼女たちの最初のお父さん、お母さんたちの話ですね。
では、ハワイで懲りたはずの新政府が、なぜ移民政策を復活させたのか。いくつかの説明があるのですが、その一つは日本社会における、いわゆるプッシュ(送り出し)要因であり、もう一つは当該地域・国におけるプル(受け入れ)要因です。
明治維新の時、日本人口は約3,000万人でしたが、それから50年が経ち6,000万人となっておりました。50年で2倍です。これは大騒動です。日本は当時、いわゆる農業国ですから、食べ物が間に合いません。それで世界中を探しながら、必要とされる国・地域へと移民を送り出したのです。ここで手をあげたのがブラジルでした。当時のブラジルでは、コーヒー農場などでの人手不足が問題となり、多くの労働力を必要としていたのです。
国内移住計画
とはいえ、日本政府は最初から海外を念頭にしていたわけではありません。移民する人も最初は、経済的に生活が厳しい人というより、戦争で負けた人たちでした。
例えば、北海道の開拓に最初に動員されたのは、戊辰戦争で敗れた会津藩の元藩士たちです。屯田兵として蝦夷地を開拓し、ロシアからの防衛の任務に駆り出されておりました。その後、開拓する必要がなくなった後に、アメリカ本土やハワイ、ブラジルなどへと出稼ぎ労働者として渡って行くのです。
送り出し先が足りなくなると、今度はアジア、特に満州や朝鮮半島、さらにはシベリア近くまで移民をさせています。元々は人口減らしのため政策でしたが、日本帝国が力をつけていく過程で、今度はいかに植民地支配を強化し、いかに日本帝国の版図を広げていくか、に関心が移っていきました。
西鋭夫のフーヴァーレポート
日系移民の悲劇(2020年5月上旬号)- 2
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。