誰も何も言わない社会

by 西 鋭夫 November 27th, 2023

学生運動

私が学生の頃は、学生運動が盛んでした。街頭デモをはじめ、学生と警察の衝突が相次いで起きておりました。なぜ当時の日本ではそんなにも多くの学生運動があったのか。

時代背景からすると、自民党の吉田茂や岸信介らがアメリカにべったりの状態でして、冷戦もヒートアップしていたことが挙げられるでしょう。何か起きたらアメリカが日本の基地を借りますよと、だからそのための約束をもう少しきちんと結びましょうと、それで日米安保が改定されることとなりました。私が大学に入りたての頃です。

学生たちはあの時なぜ盛り上がったのか。それは戦争に参加した大勢の日本人がまだまだたくさんおりましたし、占領下にて苦しい生活を経験したからでしょう。ですから、安保改定には大きな抵抗がありました。お隣の中国も経済的には弱小でしたが、強い軍隊を持っていましたから、そこと米国が戦争になったら、「俺たちは巻き込まれてしまうぞ」、「またやられてしまうぞ」という意識もありました。

 

スネークダンス 

ですから、当時の日本人には戦争という共通の経験と、それに対する大きな反対意識があったのだと思います。飢えからもようやく解放されてきた頃です。人々のエネルギーがウォーッと固まって、大人も学生も一緒になって反対運動を展開しました。共産党だからとか社会党だからとか、そんなレベルの話ではなかったように思います。

私は大学1年生でしたから、先輩からは「おい、西、おまえ強そうだからサイレンをつけて竹を持っておけ」と言われました。デモの最前列は、太くて長いモウソウダケを持って歩くのです。それは6、7メートルほどありました。皆さん、黒い制服を着て、太い棒を皆で抱き抱えて動くので、様子はスネークダンスと呼ばれました。

後ろにいる学生たちは、私たちのベルトを持ちます。それで学生間のスペースはほとんどなく、ピシャッと詰まった状態で歩いていくのです。自由な動きなどできそうもなく、一体化して警察隊に突っ込んでいくのです。

 

精神的支柱

当時の日本人の心理をがっちりとつかんだのは社会党の書記長、浅沼稲次郎でした。この男は国民全体から尊敬されておりました。今の私の声よりももっとしわがれ声で、巨漢で、東京の浅草に住んでおられました。彼はすごかったですよ。あの時の社会党は「ゴールデン・エイジ」すなわち全盛期だったと思います。ほぼ同じ時期に三島由紀夫も出てきました。三島は日本の独立を主張しておりました。私たち学生から見ると「三島は右翼だ」と言っておりましたが、同時に彼は「先生」でした。多くの国民から尊敬されていたと思います。

大物二人が革命の雰囲気を作り出しておりました。私たちもそのムードの中で戦っておりました。授業などありませんし、大学の中が空になるぐらい私たちは運動に参加していたのです。革命とはこうして起こるのか、とその時しみじみと感じました。

今日本は「誰も何も言わない社会」となってしまいました。言論はもちろん残っていますが、その多くは匿名です。命をかけ何かを守る、貫くという人がほとんどいなくなってしまったように思います。

 

西鋭夫のフーヴァーレポート
言論の自由(2019年6月下旬号)-8


 

この記事の著者

西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

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西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。