From: 岡崎 匡史
研究室より
政治に「怪文書」は付き物です。
現代でも怪文書が出回るように、戦前の日本でも政敵を追い落とすために謀略文書は流布されました。
今回は、1933(昭和8)年1月頃に出回った怪文書の一例を紹介します。東京の四谷に本部を置いた某政治結社から、大手町にある某企業宛の手紙のなかに同封されていました。
怪文書のなかで批判の矛先にされたのが第30代内閣総理大臣を務めた齋藤實(さいとう みのる・1858〜1936年)。翌1934年に齋藤實は「帝人事件」のあおりを受けて辞任。齋藤實は、第31代内閣総理大臣・岡田啓介(1868〜1952年)のもとで内大臣に就くが、悲運にも「二・二六事件」で暗殺される。
1936(昭和11)年2月26日、陸軍皇道派の青年将校が決起し、首相自宅を襲撃。岡田総理は女中の部屋に隠れて、奇跡的に難を逃れたが、教育総監の渡辺錠太郎(1874〜1936年)大蔵大臣の高橋是清(1854〜1936年)も殺された。後に、終戦内閣を組閣することになる鈴木貫太郎(1868〜1948年)も重傷を負った。
さて、肝心の怪文書には、どんな内容が書かれていたのか?
齋藤首相の二大失態事件
其一
舊臘(註・きゅうろう・去年の12月)第六十四議会開院式当日、齋藤首相は貴族院に於て勅語を捧呈し奉る際、儀禮としては、玉座より三段下に於て捧呈し奉るべきを、老耄の結果か? 畏れ多くも玉座より二段目迄進み、危く玉體に触れ奉らんとせるに驚き、狼狽して一段飛び退き辛うじて自席に退くを得たるみお、其際玉座に向ひ敬禮すべきを之を忘却せんとしたるため、側近者は驚き首相に注意を與へたる結果、漸く玉座に対する敬禮を了して退去せし大失態を演じたり
其二
去る一日五日、宮中に於ける新年宴会の際、陛下臨御、文武百官並に外國使臣列席の式場に於て、未だ勅語を賜はらざるに先立ち、齋藤首相は突惚として奉答文を讀み初めたる為め、某侍従は愴惶として之を押止め、満場恐懼色を失ひたる事實あり
如何に老齢とは言へながら、短時日の内に斯かる不敬失態事を重ねし事は、寔に言語道断である。
ー岡崎 匡史
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。