From: 岡崎 匡史
研究室より
終戦から76年。
「英霊」という言葉がマスメディアで氾濫している。
それでは、いつから「英霊」という言葉が一般に使われ出したのだろうか?
それは、「日露戦争」(1904〜1905年)の直後からと云われている。
日本の軍部が戦死者を「英霊」と讃えるようになった。
さらに、靖国神社に霊魂が合祀されるようになってから、「英霊」という言葉は一般に広がってゆく。
三国干渉
明治では土葬が一般的であった。
軍隊で火葬が行われるようになったのは、日清戦争に入ってからである。伝染病を予防するためにも、火葬をすることが軍隊で義務づけられた。日清戦争で斃れた兵士たちは、火葬され、現地に埋葬された。
しかし、日清戦争で現地に埋められた兵士たちを襲ったのは列強による「三国干渉」。フランス・ドイツ・ロシアから脅された日本は、遼東半島を清国に返還することになった。
それまで日本帝国は、領土を奪われた経験がない。戦地での「現地埋葬」を再考せざるを得ない。遺族たちの感情を悪化させるからだ。
こうして、海外で死んだ兵士を日本に必ず帰還させる道筋がつけられた。
英霊列車
戦没者の対応は、陸軍・海軍省の専権事項。陸海軍も遺族に願いに応えようとした。なぜなら、遺族は遺骨が帰還することを強く切望していたからだ。
太平洋戦争中、兵士の遺骨が乗った列車は「英霊列車」と呼ばれた。電車内には黒幕が張られ、厳粛に遺族の故郷まで運ばれた。通過駅では、英霊列車に対して黙祷をするのが礼儀とされた。
軍部としても、国民の愛国心を維持したい。戦意を高揚させるためには、遺骨(英霊)の帰還は重要な任務とされたが、戦局の悪化とともに後退していく。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・浜井和史『戦没者遺骨収集と戦後日本』(吉川弘文館、2020年)
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。