From: 岡崎 匡史
研究室より
日本大学は、「日本精神」を大学の使命として掲げ開校された。
初代司法大臣の山田顕義(やまだ あきよし・1844〜1892)が尽力し、1882(明治15)年に「日本法律学校」(日本大学)の前身となる「皇典講究所」を設立。
山田顕義は外国の法律を模倣するのではなく、日本古来の法制を研究して「日本法学」の樹立の重要性を訴えた。1889(明治22)年に金子堅太郎を校長に迎え「日本法律学校」が開校。
しかし日本が敗戦を迎えると、日本大学にもGHQの嵐が吹き荒れる。「日本精神」という言葉は戦争を暗示させたからだ。
皇道研究所
『国体の本義』が出版された1937(昭和12)年、日本大学は本部に「皇道研究所」を設立。1939(昭和14)年には、「皇道文化の組織的啓培宣揚」「皇道学の体系的研究及教授」「皇国民臣指導者の養成」をするため「皇道研究所」を「皇道学院」と改称した。
皇道学院学院長に就任したのが神道学者の今泉定助(いまいずみ さだすけ・1863〜1944)である。今泉は、1933(昭和8)年から日本大学で「皇道の本義」と題して特別講義を開講していた。
「皇道学院」の第1期から第8期生までの受講生は約2000名に及び、約1000名の卒業生を輩出。「皇道学院」の第1期生には、「東京裁判」で戦犯として起訴され、戦後「政財界の黒幕」と呼ばれることになる児玉誉士夫(こだま よしお・1911〜1984)も名前を連ねている。
総長追放
今泉と親しい関係にあったのが日本大学第3代目総長・山岡萬之助(やまおか まんのすけ・1876〜1968)。山岡総長は、GHQから教育者として不適格と名指しされ、休職に追い込まれてしまう。
山岡総長は戦時中に大政翼賛界調査委員長、興亜同盟理事長を歴任しており、日本大学を本部とする日本愛国学生連盟の創立者でもあった。そのため超国家主義的活動とGHQから目を付けられ、次期総長再選が決まっていたにもかかわらず、事実上追放の憂き目にあう。
しかし、山岡総長追放劇の背後には、もっと根深いものがある。それが、ナチスドイツとの関係である。(次回に続く)
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・葦津珍彦選集編集委員会編『葦津珍彦選集(第三巻』(神社新報社、1996年)
・日本大学今泉研究所編『今泉定助先生研究全集 第一巻』(日本大学今泉研究所、1969年)
・日本大学百年史編纂委員会編『日本大学百年史 第二巻』(日本大学、2000年)
・「山岡總長追放指令」『朝日新聞』1946(昭和21)年2月1日
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。