From: 岡崎 匡史
研究室より
暑い日が続き、外出しずらい世の中です。
今日は、少しでも心が穏やかになって頂くために「庭園」を紹介します。
日本の庭園には、「苔」(コケ)が用いられ、和の風情を醸し出してきました。
しかし、苔ではなく「芝生」(しばふ)を使った庭園が明治になってから作られるようになります。ヨーロッパ庭園の影響を受けたのでしょう。
芝生を率先して庭園を愉しんだのが、日本陸軍の立役者でもある山縣有朋(やまがた ありとも・1838〜1922)です。
椿山荘
芝生を庭園に取り入れた山縣有朋は、水の環境に恵まれた土地を選り好み、庭から池の水が見えるようにした。ただ単に、池に水を張るのではなく、水が流れるようにして、滝までつくる。躍動的な水の流れを活かし、愉しんだ。
山縣有朋の功績は現代にも残っております。有名どころを挙げれば、東京目白の「椿山荘」(ちんざんそう)です。
椿山荘は、山縣が40歳のときに完成させ、80歳になり庭園の維持が困難になるまで、40年にわたり使われました。
「椿」(つばき)という文字が使われているように、椿がよく咲いた場所。「つばき」という言葉が訛ると、「ばき」「はぎ」と言うことがあります。山縣有朋の故郷は、山口県の「萩」。「椿」(つばき)と「萩」(はぎ)は、深い関係です。故郷を懐かしみ、子どもの頃の原風景を意識して、「椿山荘」と名付けたのではないか、と云われています。
政治と庭園
椿山荘を手放してからは、神奈川県小田原の「古稀庵」(こきあん)に移り住む。山縣有朋が亡くなった場所も「古稀庵」。現在、日曜日だけ開放されています。
小田原は、暖かい気候で美しい景観。東京にも近いことから、多くの著名人が住んだ。関東の奥座敷といわれる湯河原にも、政財界の大物たちは別荘を構えています。
さらに、京都には「無鄰菴」(むりんあん)がある。平安神宮や南禅寺の近くに950坪の別荘を建てた。
琵琶湖からの水が流れ込んでくる開放的な場所で、この地域における別荘の先駆けです。秋の紅葉の季節になると、タイムスリップをしたかのような美しさ。
「無鄰菴」には、木造の家・茶室・洋館の3棟がある。この洋館で、重大な歴史的会合が開かれた。1903(明治36)年4月、山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、小村壽太郎の4人が「日露戦争」の開戦を決定づける会議をしていた。
山縣有朋の庭園は、政治の舞台でもあったのです。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
鈴木誠、栗野隆、井之川若奈「山縣有朋の庭園感と椿山荘」『ランドスケープ研究』第68巻4号、2005年
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。