From: 岡崎 匡史
研究室より
「救済」を求め、人は何を願うのか。
世界には様々な「宗教」があります。その多くに共通しているのは、「救済」という思想です。
私たちの人生は、常に順風満帆ではありません。思いがけない困難や不幸に見舞われます。科学技術が高度に発達している現代においても、地震や洪水などの自然災害が起こるたびに、人間の無力さと同時に自然への畏敬の念を抱きます。
宗教は、救済のためにどのような活動をしてきたのでしょうか?
仏教と医療
「人を助ける」という意味で、宗教は医療と深く結びついてきました。たとえば、日本の仏教は、医療福祉の先駆けです。
仏教は布教活動の一環として、奈良時代から「病院」を造っています。「官位十二階」や「十七条憲法」を制定し、仏教を厚く保護した聖徳太子(厩戸王・574〜622)は、「施薬院」(せやくいん)を創建。さらに、光明皇后(701〜760)はハンセン病患者のために「悲田院」(ひでんいん)を建造している。
鎌倉時代になると、本格的に僧侶が病院設立のために尽力し、布教活動も行ったことから「僧医」(そうい)と呼ばれるようになったのです。
学校給食と仏教
学校給食が全国的に広まったのは、GHQの占領政策に依るところが大きいことは確かです。しかし、学校給食は、戦後から始まった制度ではありません。
日本の学校給食の起源は、1889(明治22)年10月まで遡ることができます。
山形県西田川群鶴岡町(現・鶴岡市)にある私立忠愛小学校が、貧困児童たちに昼食を与えはじめます。私立忠愛小学校は、鶴岡の各宗寺院の住職たちが協力して、貧苦に苦しむ子どものために設立された。給食の献立は、おにぎり2個を主食。副食に野菜と魚類(塩乾物を中心)を週6日提供した、と伝えられています。
その後、1907(明治40)年に広島県豊田群大草村義務教育奨励会による支援、1910(明治43)年に静岡県芳川小学校、1911(明治44)年に岡山県小田群小田村学齢児童会、1912(明治45)年には広島県と岩手県の学校にも給食が広がっていく。
貧困に喘ぐ子どもたちへの救済事業として実施され、これらの慈善的事業が、徐々に学校給食制度の骨格が作られていったのです。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・三浦正行『PHWの戦後改革と現在』(文理閣、 1995年)
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。