マッカーサーによる緊急指令
吉田の解釈は、マッカーサーの当初の意図と全く同じであった。
マッカーサーは「譲渡できない自衛権」をも日本に対して否定した。彼はそれを「自国自衛のためでさえ」と表現していたのである。
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。
7月8日、マッカーサーは吉田首相に緊急指令を出した。「余は貴政府に対し、7万5千人の警察予備隊を創設するのに必要な措置をとることを認める」と同時に、海上保安庁も8千人増員することを命じた。「国内治安の維持と、日本の海岸線を不法入国や密輸から守るためである」と、マッカーサーは吉田に言った。
国防論の復活
7月14日、吉田は国会で朝鮮戦争は「対岸の火事」ではないとして、国防の必要性を強調した。「動乱は共産主義の脅威が現実的で差し迫ったものであることを示した。われわれは共産主義侵略の不吉な手が不幸な犠牲者のところに伸びているのをこの目で見た」と述べた。
マッカーサーも吉田首相も、このようにすばやく豹変できる能力を持っていることは、政治家としての強さか。それとも、武力による国際政治の世界で彼らが最も重要であると信じていた「純粋平和主義・防衛権放棄」が、いかに危険であるかに気がついたためであろうか。
マッカーサーは自分が想像できる最も理想的な憲法を書き、その中に絶対平和主義の精神を盛り込んだのだ(古今東西を通じ、その精神は一国の憲法文書にされたことはなかった)。
絶対平和主義の「夢」
マッカーサーと日本国民は、この絶対平和主義の精神が永久に生き続けることを夢見た。しかし、この美しい夢は朝鮮戦争の余波を受けて、生後1640日にして死んだ。第9条は、その夢に対する碑文のようにさえ見える。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
私は、マッカーサーの「日本改革」について厳しい批判をしたが、忘れてはいけないことは、彼が、戦前には想像もできなかったほどの「基本的人権」すなわち「個人の自由」を日本国民にもたらしたことだ。この自由のおかげで戦後日本が、自由競争をルールとする資本主義経済の世界で繁栄しえたのである。
西鋭夫著『富国弱民ニッポン』
第2章 富国日本の現状−29
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。