From: 岡崎 匡史
研究室より
1945(昭和20)年8月15日、日本帝国は「ポツダム宣言」を受諾し終戦を迎える。
昭和天皇の「玉音放送」がラジオ放送で流れ、日本国民は敗戦を嘆き悲しんだ。
それから、わずか11日後の8月26日、アメリカ第3艦隊は神奈川県に面した相模湾に姿を現した。
DDT散布
2日後の8月28日、米海軍部隊は日本海軍に対して注意事項を伝達した。
「上陸に先立つ24時間のうちに、蚊やその他の害虫を撲滅するために、消毒液の空中撒布がおこなわれる」「作業に従う飛行機が白煙のようなものを吐いても市民は怖れるにおよばない」
「消毒液の空中散布」「白煙のようなもの」とは何か?
それは、DDTだ。
「DDT」とは、有機塩素系の殺虫剤「Dichloro-diphenyl-trichloroethane」(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)の略称である。DDTは、シラミや害虫を防疫する効果的な殺虫剤。
日本国民を恐怖に陥れた「原爆」や「焼夷弾」に代わって、今度は飛行機からDDTが撒布された。
日本国民を救うためか?
いや、見えない敵ウィルスからアメリカ兵を守るためだ。
公衆衛生対策
米国政府は、日本が降伏する前から、公衆衛生対策を練っていた。
日本に潜入している諜報員から、日本でチフスが流行しているという報告を受けていた。だから、戦時中からフィリピンでDDT製造とチフスワクチンの準備に取りかかっていた。
そして、日本の主要30都市の航空写真を入手して被害状況を把握。必要な医療物資量まで予測した。ところが、GHQの占領政策が実行される段階になると、日本の反乱を恐れだす。
医療物資ではなく、武器を日本に輸送した。その間に日本では、チフスが急速に蔓延しだした。
サムス准将の決断
GHQで公衆衛生福祉局のトップは、軍医のクロフォード・サムス准将。
サムス准将は、日本でチフスが猛威を振るうことを瀬戸際で食い止めたい。
マッカーサー元帥にすぐさま進言した。
「大流行を止める手だてを何も講じなければ、日本の都会で何千人という人が死亡する」「このような事態になれば重大な社会不安を引き起こすことになるであろう」
マッカーサーは、サムスの意見をすぐに受け入れる。
チフス対策に必要な物資を、優先的に日本に運び込めるように指示を出した。
1945(昭和20)年11月には、米軍のDDTやワクチンが日本に到着し始めた。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・Crawford F. Sams. "Organization of Civilian Medical Service in the Theater of Operations," Crawford F. Sams Papers, Box 7, Hoover Institution Archives, Stanford University.
・クロフォード・F・サムス『GHQサムス准将の改革』(桐書房、2007年)
・ GHQ/SCAP『GHQ日本占領史 第22巻 公衆衛生』(日本図書センター、 1996年)
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。