イクラと筋子の造り方
イクラと筋子は、次の順序で製造される。
桟橋に着いた船から大量の鮭が下ろされると、種別に分けられ、1匹ずつ頭を前にして移動しているベルトに乗せられ、工場の中へ入る。膝まで黄色のゴム製の前掛けをし、黄色の長靴を履き、黄色の漁師用の帽子を被った30人ほどの若いイヌイット、アリュー人の男女が鋭利なナイフで鮭の腹を手早く裂く。
10匹中、5、6匹のメスには、薄い半透明の膜の袋に卵が双子のように並んでいる。卵を取り出す。それらが「筋子」になってゆく。白子は全部、海に捨てられる。鷗が並んで丸飲みにしている。
腹を裂いた時、大粒の卵がパラパラとこぼれるように出てくると、それはイクラ造りの方へ回される。大粒の卵を10キログラムごとにバケツに入れ、塩水で洗う。塩の濃度と洗う時間の永さでイクラの味が決まる。
イクラおじさんの芸は秘伝。芸術品である。私は両手で水を飲むかのように、熟した柿色のイクラをほおばった。ブチッバチッと破裂してゆくイクラの味には深みがあった。美味しいものには、文字どおり「美」がある。
日本への空輸
おじさんの造ったイクラはお供え物のように箱詰めにされ、日本へ空輸された。どこかの高級料亭に直行である。今、日本の店頭で見かけるイクラは、私がアラスカで食べたものとは卵の色が違う。染色してあるのか、味も違う。
筋子も塩だけで造られ、5キログラムの箱に入れられ、夏の終わりまで倉庫(自然冷蔵庫)に山積みされ、貨物船で日本へ輸出された。筋子は鮭の脂の強い臭いがした。
アラスカに別格の鮭がいる。紅鮭よりもおいしいといわれている「キング・サーモン」。2メートルもある鮭の王様。釣り人なら一生に1匹でも釣りたい鮭だ。私は釣ったことはないが、5、6匹見たことがある。放してやりたいほど、美しく威厳のある魚である。
イヌイットたちの暮らし
イヌイットたちの話を少し。イヌイットもアリュー人も良く働く。彼らの現金収入は夏期のカンヅメ工場での仕事だけだ。私とは英語で話したが、彼らの間では自分たちの言葉で話をしていた。
70歳のイヌイットの老人も働きに来ていた。生活が厳しかったのか、90歳ぐらいに見えた。彼はイヌイット語しか話せず、仕事は工場の床の清掃。速く動くと壊れそうな体で絶えず働いていた。
夕食の後、彼の小さな部屋はイヌイットの若者で一杯になる。彼が長いセイウチの牙に小さなポケット・ナイフとキリだけで見事な彫り物を創るからだ。私も老人の部屋へ行き、彼の創作に見とれていた。
彼は、彫りながら若者たちに話をする。イヌイットの伝説と神話を伝えていたのだろう。2、3人の若者は彼の手伝いをしながら、彫り方を教わっていた。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第3章「アラスカ半島でイクラ造り」−6
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。