フーヴァー研究所東京オフィス秘話①

by 岡崎匡史 December 2nd, 2017

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研究室より

米国屈指の研究機関スタンフォード大学フーヴァー研究所は、第一次世界大戦(1914〜1918)が終わった翌年の1919(大正8年)に創立された。スタンフォード大学の卒業生ハーバート・C・フーヴァー(Herbert C. Hoover・1874〜1964)が戦争の惨禍を省みて、平和を探求する研究機関として設立した。

しかし、フーヴァー研究所の出先機関が日本に存在し、精力的な活動をしていたことは歴史の片隅で忘れさられている。関係者もこの世を去り、フーヴァー研究所に所属している者でも、東京にオフィスがあった事実さえ知らない。

フーヴァー研究所は、いつ日本に進出してきたのか。それは、日本がマッカーサー元帥率いる連合国軍総司令部(GHQ)に占領されていたときだ。フーヴァー研究所は、占領下の日本でいかなる活動をしていたのか。戦禍で荒廃していた日本にわざわざ進出した狙いは何か。

スタンフォード卒業生



1945(昭和20)年9月2日、東京湾に停泊する戦艦ミズーリ号にて日本政府の全権大使重光(1887〜1957)が「降伏文書」に調印した。それから約1ヶ月後の1945年10月14日、東京に在住しているスタンフォード大学の卒業生たちが会合を開いた。

彼らは、なぜ日本が戦争に突入し、大敗を帰してしまったのか。その根本的な原因は何か。太平洋戦争の原因を究明するためには、戦争に関する公文書や外交文書を分析する必要がある。記録文書の保存が不可欠だという話しあいのなかで史料蒐集計画が練られた。

この会議に関与していたひとりに奈良静馬(ならしずま・1886〜1947)という人物がいる。奈良静馬は、1916(大正5)年にハワイに渡り、アメリカ各地の日本語学校で校長を務めた。スタンフォード大学で歴史学を学び、1922(大正11)年に修士号を取得。修士論文は、The Relation between Japan and the Philippines(指導教官P・J・Treat)という論考でキリスト教からみた日本とフィリピンの交流史である。

253ページからなる修士論文は、スタンフォード大学グリーン図書館特別コレクションで閲覧することができる。日本語版は太平洋戦争中の1942(昭和17)年に大日本雄弁会講談社(現在の「講談社」の旧称)から『西班牙スペイン古文書を通じて見たる日本と比律賓フィリピン』と題して公刊された。


奈良静馬は、1930(昭和5)年に日本に帰国し講談社に入社。「日本雑誌協会」の講談社代表として頭角を現し、「日本出版文化協会」の理事をつとめた。


東京オフィスの設立

東京オフィスの構想を最初に考えたのは奈良静馬と云われている。東京オフィスは、東京都千代田区駿河台1丁目、現在の「日本雑誌会館」に事務所を構えた。まさに、奈良静馬と関係のあった「日本雑誌協会」の事務所と同じ場所である。

古書街で有名な神保町が目と鼻の先にあり、文人の宿として知られる「山の上ホテル」(占領中はGHQに接収され陸軍婦人部隊の宿舎)が近くにある。明治大学や日本大学や専修大学も近郊にあり、政府の主要機関へのアクセスも便利だ。まさに、絶好の場所に東京オフィスが設立された。

フーヴァー研究所東京オフィス秘話ー②につづく

岡崎 匡史

この記事の著者

岡崎匡史

岡崎匡史

日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。

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岡崎匡史

岡崎匡史

日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。