戦犯の釈放
日本の「無防備平和」宣言は、夢想家の夢でしかなかった。朝鮮戦争が勃発した時、この夢は「現実政治」に曝された。刀狩りされた日本にとり、独り歩きすることは余りにも恐ろしかった。
これを十分理解していたマッカーサーは、1950年3月7日、服役中の戦犯は釈放してもよいと日本政府(吉田首相)に指令を出した。
ソ連の反発
ソ連は、マッカーサーの指令が彼の権限を越えたものである、と強い抗議をワシントンのアメリカ政府に突きつけたが、国務省はマッカーサーが、彼の任務を国際法に基づいて立派に遂行していると反論し、ソ連を無視した。
それ故、日本の共産主義者を追放する一方で、日本政府は、かつて民主主義の「敵」と見做された軍国主義者や国家主義者の大量「追放解除」を実施した。
寛大な恩赦
1950年9月〜10月に、社会に復帰した「悪人」は1万3340人、1951年6月〜10月には、35万9530人に達した。吉田首相は、マッカーサーの寛大な「恩赦」に再度深い感謝の意を表明した。
かつての戦犯たちには恩赦だけでなく、新しい職場も待っていた。マッカーサーが命じて設立させた7万5000人からなる警察予備隊(陸上自衛隊の前身)である。
さらに、この恩赦を受けた者たちを応援するかの如く、マッカーサーは朝鮮戦争の軍事力増強のために、7月17日、「国連義勇軍」の結成を提案した。
ダグラス・マッカーサー(左)と吉田茂(右)
国連義勇軍
吉田首相は、「私は義勇兵は許したくないと考える。日本の再軍備とか、日本が世界平和を脅かす恐れが対日講和を遅らせてきたことを思うと、義勇兵の如きは私は許したくない」と7月21日に、衆議院外務委員会の席で答弁した。
吉田の友人の元文部大臣、田中耕太郎最高裁判所長官は、翌日、国連義勇軍に志願兵として参加しても憲法違反とはならないと発言した。
敬虔なキリスト教徒であった田中は、朝鮮戦争をマッカーサーと同じように「悪魔対神」の宗教戦争と判断したうえでの発言であったのだろう。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。