平和条約の兆し 

by 西 鋭夫 January 2nd, 2017

吉田の牽制


そして、絶望感に取り憑かれていた日本国民に希望を与えようと思っての発言だったのだろうか、マッカーサーは1947年3月19日、「アメリカの日本占領を終結するための平和条約交渉を始める時期がきたようである」と記者会見で提案し、「将来の日本の安全保障は国連に委ねる」と言った。

同日、吉田首相はAP通信社の記者との対談で、「国連よりもアメリカの保護の方が好ましい」「我々は、今、共産主義者たちと戦っているのだ」「我々にとって北方に極めて危険な敵がいる」と言った。


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『ニューヨーク・タイムズ』紙は、1947年3月20日付で、この吉田発言を記事にした。



言い掛かり


ワシントン駐在のS・ツァラプキン・ソ連大使代理は、ディーン・アチソン国務次官に、「連合国軍に降伏した日本の吉田が、首相の資格で連合軍同盟国のソ連に対して敵対的な攻撃を行なった」と抗議を申し立てた。

アメリカ政府かマッカーサーが吉田にそのような発言をさせたのだろうと攻撃をしているのだ。

アチソン(国務次官)は、「調査を始める」とツァラプキンに返答し、ツァラプキンの抗議書を東京駐在のアチソン政治顧問宛に送り、「何が東京で起こっているのか」と問い合わせた。



巻かれたツァラプキン


東京のアチソン政治顧問は、「何事もない」と回答した。

ワシントンのアチソン国務次官は、ツァラプキンに「吉田首相が、あのような発言をしたという事実は何もない。吉田首相にインタビューをしたのはアメリカ人記者一人だった。彼が吉田の発言を誤って報道した」と返答した。

アチソン国務次官は、イギリス大使を務めた吉田首相が英語をよく理解していたとはツァラプキンに告げなかった。

1948年11月3日、国連総会は、日本とドイツに関する平和条約を作成するよう連合国に要請した。


この記事の著者

西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

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西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。