米国留学か、否か
1949(昭和24)年1月、皇后陛下がマッカーサーの政治顧問シーボルドに内々で、15歳になった皇太子殿下を「アメリカの高等学校へ入れ、次いでイギリスの大学に行かせたい」と願い出られた。
マッカーサーは、この考えに同意はしたが、
「あの子は先ず英語が話せるように勉強しなければならない。留学はそれからのことで、アメリカの高校からではなく、アメリカの大学の4年制普通課程に入学したほうがよい」
と考えた。
シーボルドも、「日米関係から見ても、又封建的な慣習が段々と再び現われそうな皇室の雰囲気から若いプリンスを引き離すためにも、この考えはよいことだ」と思った。
シーボルドは、友人である国務省のW・ワルトン・バターワース極東問題担当次官の意見も聞いた。
懸念材料
バターワースは、
「私の考えでは、日本の宮廷の中で育った者が、幼い裡に、極く初歩の英語力しかないのに外国へ行って、しかも大半が既に数年間も同じクラスで過ごしてきた寄宿学校生徒の中に交じるのは、殆ど不可能だと判断すべきだ」
と答えた。
また、「戦時中の憎悪心は国民の間にまだ根強い」と注意し、
「君も知っての通り、日本人はこういう事柄にはことさら神経過敏である」
「さらに2年間、日本でバイニング夫人の優れた指導の下に、特に英語と西洋文化に重点を置いた勉強をした方がよいと思う。2年経てば、皇太子は大学進学の学齢に達する」
と述べた。
イギリス留学の勧め
しかしながら、皇后陛下が、なおも皇太子殿下の海外留学を希望しているなら、
「その気持ちは、汲んでやらなければならないが、その場合、アメリカ留学はしない方がいい。なぜなら、アメリカでは人種差別から厄介な事件が起きるとも考えられ、皇太子のアメリカ滞在は絶えず心配の種にもなるからだ。アメリカ留学よりもイギリス留学の方が、アメリカの日本〝植民地化〟の非難をかわすことにもなろう」。
決定の真相
バターワースは、アチソン国務長官も自分と同意見だとシーボルドに告げている。
皇太子殿下は、オックスフォード大学ではなく、東京の学習院大学へ進まれた。
その頃、占領も終わろうとしていたし、皇后陛下も未来の天皇のアメリカ化は外交的に最早必要ではないと考えられたのだろう。
皇太子は、マッカーサーに一度会われたことがある。バイニング夫人が、1949年6月27日に、皇太子を第一生命ビルへ連れて行き、対面させた。
同年の9月、街では、美空ひばりの「悲しき口笛」が大ヒットしていた。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。