内部対立
トレイナーの懸念は、未だ納まらない。
彼はイールズ案を部内で検討し、その後で、「南原が副委員長を務める教育刷新委員会に打診してみることも可能であろうが、もし南原が興味を示さなければ、私はどんな案でも出すのには反対である」と主張した。
しかし、イールズは、多くの教育行政担当者たちと話し合いを始めた。
トレイナーは「これらイールズの話を聞いた者たちは、我々と色々な案を話し合うために、代表を送り込んできた」とオアに伝える。
リチャード・フィンはシーボルド政治顧問(外交局長)に、イールズ案は「日本中に反対の嵐を巻き起こしました」「特に、強硬な反対を表明したのは旧帝国大学です」と報告した。
旧帝大の反撃
大学側は、都道府県庁には大学を運営するだけの行政力も財政能力もなく、この欠陥は、大学の自治はおろか生存さえ脅かすと主張した。
また、(アメリカの大学と違って)日本の大学は地域的な要求で創設されたのではなく、全国から学生を集めて教育するので、「国家的」なものであるとCIEに詰め寄った。
1947年12月27日、南原東京大学総長は、極秘裡に外交局(DS)政治顧問事務室を訪れ、同じ意見を述べ、このイールズ案はGHQの民政局(GS)が嗾けているのに違いないと言った。
彼は悪い場で、間違った観察を口にしてしまった。民政局は、全く関与していない。
しかし、CIEは日本側の意見を受け入れ、イールズ案を握り潰した。
イールズは、大学側の反対が功を奏したのを、共産主義の政治煽動だと受けとめた。イールズの復讐は、レッドパージだった。彼は喜び勇んでその先陣を引き受けた。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。