森戸辰男
1948(昭和23)年6月、衆参両院は教育委員会法案を審議したが、可決の見通しがつかない。
森戸辰男文相は、同月29日、オア教育部長と会い、「GHQの民政局が法案可決にそれほど乗り気でないということを衆議院文教委員会で聞いてきたばかりです」と言った。
驚いたオアは、直ちに民政局に電話で確かめた。民政局は「法案はできる限りすみやかに可決されるべきだ」と答えた。
東京帝大卒の森戸は、同大助教授の時に書いた論文「クロポトキンの社会思想の研究」(1919年)が大きな社会問題になり、辞職に追い込まれた。
戦後、社会党結成に参加し、片山内閣、芦田内閣の文相。広島大学長も歴任する。
教育委員会法案の可決
その翌6月30日、オア教育部長は、衆参両院の文教委員長(その一人は田中耕太郎)と会い、法案可決を促した。
5日後の7月5日、国会は教育委員会法案を可決した。同月15日、同法が制定、公布された。
「教育委員会法」は、教師が教育委員に立候補することを禁止するはずだったが、日本教職員組合(日教組)は精力的に運動し、その禁止を修正させた。
教育委員会選挙の実施は、1948年10月5日となった。マッカーサーが「文部省の権力を制約し、教育の権限を中央政府から地方に分権するためにとられた最も重要な措置」と言った改革が、順調に動き出したかのように見えたが、現実は期待を裏切った。
軍政局の反対
公選に対する強硬な反対が、思わぬところから持ち上がった。
アメリカ第8軍参謀本部である。第8軍は「軍政局(Military Government Section)」と呼ばれ、日本全国に駐留して日本人を服従させる任にあたっていた。
1948年8月23日、民間教育担当のS・B・サターホワイト中佐は、上官の承認を得た非公式の手紙をCIEに送り、第8軍の抱いている不安を表明した。
「日本人は未だ新しい法律の内容について何も理解していない」「10月5日の選挙は時期尚早であり、半年延期せよ」「教員が立候補するのを許してはならない。なぜなら、学校行政は日教組によって向こう四年間、牛耳られてしまうからである」「選挙前の立候補資格審査は廃止すべきだ。最良と思われる委員候補たちの多くに立候補への二の足を踏ませるからである」
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。