屈辱の会見
「内閣草案」は、マッカーサー草案に極めて良く似ていた。当然である。即日、マッカーサーはこれを承認した。
幣原首相と閣僚は、その内閣案を読んで涙に噎んだ。
しかし、幣原はAP記者に、「日本側が天皇の新しい定義として国家の象徴を提案した」と語っている。そう言え、とマッカーサーからの厳命だったのだろう。
天皇が「国家の象徴」という発想は、当時の日本人には不可能な考え方だ。「シンボル」はアメリカ人の発想だ。
陛下のご決断
幣原内閣の苦悩は続いた。内閣案を拒否するかどうかではなく、完全受諾か条件付きかで苦しんだ。最後の手段として、幣原は吉田を伴い、3月5日の夜遅く天皇を訪問した。
天皇は「この草案を支持する」と言われた。
『朝日』の書きぶり
翌3月6日午前、幣原内閣は同草案を公式決定した。全文が3月7日、全国に発表された。
『朝日新聞』は「画期的な平和憲法」として歓迎した。そして、8日の社説では、
「政府草案という限りにおいて、それは天降りともいえようが、......われわれはこの草案を以て、国民が論議研究するに足りる高い価値を持っていることを断言し得る。これは幣原内閣単独の力のよくなし得る所でなく、......アメリカの強力な助言が役立っているとみるべきである」(原文は旧かな)
と明言した。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。