「内閣草案」の裏側

by 西 鋭夫 January 3rd, 2016

吉田の悪足掻き


「48時間以内に返答せよ」とホイットニーは吉田に命令する。内閣も大衝撃を受けた。

日本政府は、革命的なマッカーサー草案を基礎とした新憲法を作る心構えは全くできておらず、GHQと交渉し、妥協策はないものかと探りはじめた。

松本が妥協を求め、ホイットニー准将に会いにいった時、「マッカーサー草案はまとまった法体系であり、その一部を変更することは全体に悪影響を与える」とホイットニーは突き返した。

日本政府は「吉田外相が松本支持の保守派の急先鋒」(GHQの台詞)となって手を打ったが、マッカーサーには妥協する意図など全くないことを悟る。

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分裂


日本政府は新憲法支持派と明治憲法擁護派に分裂した。

マッカーサー草案を受け取った1週間後、2月21日、幣原首相は行き詰まってマッカーサーの助言を求めた。

翌日、幣原はこの会見について閣議で説明する。

「マッカーサー元帥は日本の幸福を第一に考えており、ことに天皇陛下と会ってから、天皇を護ることが非常に重要であると思うようになった。しかし、極東委員会の対日感情がなお強く、ことにソ連、オーストラリアは日本がやがて強国になり、連合国に報復するのではないかと懸念しており、極東委員会が天皇を裁判にかける可能性をなくすため、マッカーサー草案では、意識して天皇の定義を国家の象徴とし、戦争放棄条項を強調したのである」


内閣草案


民政局は、「GHQは幣原内閣の苦境に介入することを望んでいない」と、事実を曲げて記述した。

しかし、悪質だったのは、マッカーサーがまだ一度も会合を持っていない極東委員会を飽くことなく利用したことだ。彼はこの委員会を極めて軽蔑していたのだからなおさらだ。

「マッカーサー草案」から2週間後、1946年3月2日、最初の日本政府案がどうにか作成された。同草案は3月4日、マッカーサーに渡された。松本案は、二度と持ち出されなかった。

マッカーサーの側近(ホイットニーたち)と日本側との間で緊密な討議が行なわれ、3月5日、第二の日本政府草案、いわゆる「内閣草案」ができあがった。

この記事の著者

西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

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西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。