人質・ヒロヒト
民政局は、6日間で憲法草案を完成し、1946年2月10日、マッカーサーに提出した。マッカーサーの承認を得て、ホイットニーは「マッカーサー草案」を松本と外相の吉田に手渡した。2月13日午前10時のことである。
吉田は、その日のことを忘れたくても忘れられない。
「ホイットニー准将は私に、GHQが松本草案に満足していないので、このモデル草案をもってきた。この草案に基づいて、できるだけ早く、改正案を作成せよと命令した。草案はアメリカ政府ならびに極東委員会の承認を得るであろうと言い、もし日本側が即刻改正案を提出しなければ、天皇に何が起こってもGHQは知らないぞ、とまで言った」
ホイットニーは、
「内閣が草案を差し出さねば、マッカーサー元帥はこの草案を(政府を通さずに)国民の前に提出する用意がある」
と言った。日本保守派は、天皇を救うためならば何でもすることを、GHQは毎日のように見ていた。新憲法は天皇の命と交換だったのか。
謀略
ホイットニーが吉田に、「マッカーサー草案は極東委員会の同意を得るだろう」と言ったのは、謀略である。
マッカーサーは、機能的には存在さえしていなかった極東委員会と、憲法改正について協議する気持ちのかけらさえなかった。彼は『回顧録』の中で、
「占領(政策)が極東委員会の審議に頼っていたら、ソ連の拒否権で、新憲法は金輪際できあがらなかっただろう」
と本心を明らかにしている。
「マッカーサー草案」を手渡された時、ホイットニーによれば、吉田と松本は
「目に見えてうろたえ、問題を閣議で論議しなければならないと言った」。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。