レッドパージ

by 西 鋭夫 July 14th, 2015

ライシャワー大使の見解



エドウィン・O・ライシャワー(ハーバード大学教授、元駐日アメリカ大使、戦後、最も有名な大使。1990年、90歳で死去)は、この徹底的パージを次のように弁護した。

吉田の弁解を逆手にとり、「日本の場合、ドイツのナチ党のような判然した識別票がなかったので、山羊(ヤギ)の群れから羊を選び出す仕事を容易にするため、当局としては漠然ではあるが全容疑者を一網打尽にできるような指令を出さざるを得なかった......。ほぼ20万人が公職から追放された」。

30万人とも言われている。

国務省ロバート・フェアリーの見解


東京に駐在していたアメリカ国務省のロバート・フェアリーは、バーンズ国務長官にあてた長い(20頁)メモ(1946年4月17日付)の中で、「追放されたのは保守的、もしくは右翼的思想を持つ日本の有能な指導者のほぼ全員だった」と述べ、追放に反対する意見を述べた。

「これは2つの理由で不幸なことだった」と続ける。

第1の理由は、「旧指導者に取って代わった者たちは能力がなく、非常にいい加減な『自由主義者』である。戦争遂行に当たっては責任が大きくなかったが、旧指導者と同様、熱烈なる戦争信奉者であった。そのような連中が、旧指導者に取って代わったことは、日本の改革を成し遂げる上で、障碍となったし、今後も障碍となろう」。

第2の理由は、「将来、日米関係を親密にするために、この追放政策が占領目的のために絶対必要でないのなら、アメリカは日本国内の権力抗争で、左翼を支援するだけであり、追放はアメリカの国益にそわない」。

フェアリーの見解は、その後「レッドパージ(赤狩り)」と同時に行なわれた「軍国主義者」の「追放解除」を予告した。

レッドパージとは何だったのか?


1948年5月、このアメリカの国益に合わないかもしれない軍国主義者追放が終了した時、GHQは自画自賛した。

「混乱も、無秩序も起こらず、共産主義も殆ど擡頭しなかった。......占領初期の麻痺状態に比べれば、経済は生命力を回復した。......各分野で新しい指導者となった人たちは、1945年8月、9月当時の指導者に比べれば、質的に向上し、彼らの目は未来の建設という1点に集中している」

マックス・ビショップは、「日本の政界、官僚、財界の『浄化』のためにGHQがとった手段は、たとえれば、新しい道路を作る時、土木技師が事前の調査もせず、邪魔になるものをブルドーザーで十把一絡げに取り除いたようなものだ」と批判した。

マッカーサー自身の評価は、1949(昭和24)年1月23日、ドレイパー陸軍次官に宛てた私的秘密電報の中で明らかにされている。

日本における追放政策は、日本の復興に何等悪影響も齎(もたら)さず、日本の政治的、精神的、文化的改新に多大な恩恵を与えた」

しかし、マッカーサーは、『回顧録』の中では、「この追放政策が賢明だったかどうか、大きな疑問を持っていた。新しい日本の再編成に当たって多くの掛け替えのない人材を失うことになったからだ」と書いている。

吉田茂の功罪


「新しい指導者」吉田茂は、政敵(鳩山一郎)の追放で首相になることが出来た男。

吉田は自伝の中で、「パージが日本のあらゆる分野を民主化するにあたり、多大な影響を及ぼしたことを認めざるを得ない」と述べた。

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追放大賛成だったマッカーサーは、「追放反対」になる。

追放大反対だった吉田は、「追放賛成」になる。

名誉を求め、歴史に名を残そうとし、己の信念を都合よく忘れ去り、「己」を新しく書き改める。これは人間の性(さが)か。それとも、「偉人」になりたいという切ない願望の底知れぬ落とし穴なのか。

この記事の著者

西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

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西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。