国防省オロオロ
国務省が苦慮している間、国防省(陸軍省)は何をしたか。
アチソン国務長官は、「マッカーサーの問題が持ち上がってくる度に、国防省は彼に対して毅然たる態度をとることは極めてまれであった」と不満を漏らした。
ディーン・G・アチソンは、マーシャルの後を継いで、国務長官を1949年1月から1953年末まで務める。ソ連封じ込め政策を強化した。1970年に出版した彼の回顧録はピューリッツァー賞を取った。
駐ソ・アメリカ大使、商務長官、そしてトルーマン大統領の親友として相談役を務めた、大富豪のウィリアム・アベレル・ハリマン(ニューヨーク州知事をも歴任)も、「国防省がマッカーサーに対して柔らかい子山羊の手袋を填(は)めて腫れ物に触るような態度」を示したと言い、「我が参謀総長は、常にマッカーサーを恐る恐る手厚く扱い、送られるべき命令、確固たる伝達を決して送らなかった」とも言った。
「全くその通り」とアチソンも同意見だ。
ケナンは退任間近いマーシャル国務長官に、「マッカーサー元帥の指揮下に置かれた機関ではなく、独立して国務省に報告する特別大使を東京に常任させてはどうか」と進言したが、マーシャルは無視するような素振りを見せた。
ケナンは、「マーシャル長官がこの勧告を受け入れなかったのは、彼がマッカーサーの性格を知っており、彼の同意を得られないであろう政策を、いくら提案しても無駄だと解っていたからだろう」と述べている。
マッカーサー・ケナン会談
ケナン自身が、1948年3月1日から23日まで、マッカーサーと協議するため東京に派遣された。公職追放や財閥解体に関して、マッカーサーの説明を聞きに来たのだ。
マッカーサーとの話し合いは、ケナンによれば、「サンフランシスコ講和条約起草のために必要な下調べ」でもあった。ケナン訪日の成果は、最高機密文書の「アメリカの対日政策に関する勧告書」である。国務省は1948(昭和23)年6月、これを国家安全保障会議に提出した。
国務省(ケナン)の勧告は、次の通り。
「日本の経済回復がアメリカの最も重要な目標とされるべきである」「アメリカの 長期援助に支えられ、日本の対外貿易の復興が促進されるべきである」「我々は日 本政府に、経済再建の成功は生産を向上し、厳しい勤労、最小限のストライキ、 インフレを抑制し、高い輸出水準を維持しようという日本人の確固たる決意と努 力次第であること、を明確にするべきである」
1948年6月8日、陸軍省は、この国務省の「勧告書」をマッカーサーに打電した。
マッカーサーは何もしない。
国務省からの「勧告」など必要ないと思っている。
大統領の命令だ
6カ月後、12月10日、アメリカ政府(トルーマンと国務省)は、陸軍省起草の「日本における経済安定化」と題する「命令」をマッカーサーに打電した。
「あなたは、日本の輸出生産を最大限増強すべく、日本の財政、物価、賃金安定 を早急に達成するよう、しかるべき措置をとり、経済安定政策の速やかなる実施 を日本政府に指示せよ」
大統領命令である。
マッカーサーも動かずにいられない。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。