日本経済抹殺
マッカーサーの日本経済無力化作戦は続けられた。
1947年2月20日、マッカーサーはアメリカ議会に、「降伏以来、日本国内での経済的封じ込めはさらに強化されている。他国との貿易・金融取引が我々の命令で禁じられたため、(日本は)経済的に絞め殺された状態である」と書き送った。
1カ月後の記者会見で、彼は「いかなる武器も、たとえ原爆でさえ、経済戦ほどの致命的打撃は与えない。原爆は数1000人を殺すが、飢餓は数100万人を殺す」と日本経済抹殺の成功について話した。
しかし、マッカーサーは、占領下日本と韓国に食糧を確保するため懸命に動いた。彼が1948年度予算の見積りを陸軍省に送付した時、陸軍省は日本と韓国向け救済予算として9億ドルを議会に計上した。
1947年2月14日、アイゼンハワー元帥はマッカーサーに、「議会はこの金額を50パーセント削減しようとしている......日本と韓国での破滅を意味することになろう」と打電した。
2月20日、マッカーサーは、アイゼンハワーとハワード・C・ピーターソン占領地域担当次官に、「もし全額得られないのなら、我々の勝利は部分的に完成しただけであり、1つの戦争から次の戦争までの間、単に休戦しているだけだと言ってもよい」と返電した。マッカーサーの熱烈な「直訴」は7頁にものぼる。
翌日、アイゼンハワーはマッカーサーに、「貴殿の素晴らしい陳述書に感謝している。貴殿の陳述書は、議会に予算案を提出する際、重要な資料となる」と返電した。
空腹
トルーマン大統領は、日本の食糧事情に関する数多くの緊急報告を受け取り、日本人が飢餓寸前であると思っていた。
彼の特使で中国経済復興のため中国に派遣されていたロックは、東京でマッカーサーとGHQの経済科学局長レイモンド・C・クレイマー大佐(初代局長)と会った。
ロックの大統領宛の報告は、「たとえ必要な輸入物資(400万トンから800万トン)が送られて来ても、人々の手に食糧や衣料品が渡るまでには、さらにひどい飢餓が蔓延するでしょう」「もし我々が日本の食糧供給に失敗すれば、高い死亡率と国内の騒乱をもたらし、絶望的な状態になるでしょう」と書いてある。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。