マッカーサー杯
「キリスト2世」は別にしても、マッカーサーはスポーツマンシップの象徴として日本の若者に「広報」されていた。
1947年8月、大阪で初の「マッカーサー杯」(テニスと卓球)が行なわれ、知事や文部省代表を含め多数の役人たちが開会式に出席した。
アメリカ陸軍のブラスバンドが演奏し、GHQの体育教育の係員が、「スポーツにおいて、日本が過去の成果を残すことができたのは幸いである。統制と封建的観念から完全に解放されたら、スポーツは民主主義の実践に多大の貢献ができるだろう」と述べた。
開会式に携わった日本人の1人は、このアメリカ体育教育官に「アメリカのバンドの応援を受けた雄々しい式典を見て、多くの参加者が喜びと感謝で涙を流しました」。また、「もしマッカーサー元帥が日本のオリンピック参加を許可して下さったら、我が国のスポーツマンは喜びと感謝でほとんど気も狂わんばかりになるでしょう」とも言っている。
勝者には大きなマッカーサー・メダルが授与され、参加者全員に小さなマッカーサー・メダルが贈られた。
フジヤマのトビウオ
この年(1947年)の夏、終戦後、初の日本人英雄が誕生した。
古橋広之進(ふるはしひろのしん)(18歳)である。
彼が8月8日、東京・神宮プールにおいて400メートル自由形で4分38秒8の世界新記録を出した。神宮プールは占領軍専用だったが、この大会のため、特別許可が下りた。
日本中が沸き返った。翌日の午後5時半、古橋は自分の世界新をさらに0・1秒縮めた。
私は6歳だった。ラジオ実況放送で興奮した。近所でも大人たちは、歓声を上げ、お祭り騒ぎであった。
翌1948年7月29日から8月14日まで、ロンドンでオリンピックが開催されたが、イギリスは、戦犯「日本」を拒絶した。
8月5、6日、古橋と彼の良きライバル橋爪四郎(はしづめしろう)(日本大学で同窓生)は、1500メートル自由形で従来の世界記録を20秒も縮め、古橋18分37秒0、橋爪18分37秒8と、世界の競泳界の常識を打ち砕いた。
ロンドン・オリンピックの金メダリストは、古橋より40秒も遅かった。
古橋の大活躍はまだ続き、その翌年かつての敵アメリカに招待され、8月16日、ロサンゼルスで世界新記録を5つも作り、「伝説」となる。アメリカ全土で「フジヤマのトビウオ」と愛をこめた称賛を受けた。古橋と橋爪は、敗戦国日本に輝かしい希望を齎(もたら)した国民的英雄である。
学問の世界でも国民的英雄が1人出た。1949年12月10日、スウェーデンの首都ストックホルムで、湯川秀樹(42歳)京都大学教授が、ノーベル物理学賞を受賞した。日本人で最初である。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。