伝道師・マッカーサー
「民主主義」という言葉は熱狂的に持て囃され、国民を惨めな現状から解放し得ると思われた。日本人の思想と行動、特に著名な人々の言動は、戦前に遡って「民主主義の立場」から検閲された。
民主主義の力は、明治初期の「文明開化」と「富国強兵」に匹敵し、「民主主義」に反論しようとする日本人はいなかった。
マッカーサーは「民主主義」で、何をしようとしたのか。
彼の雄弁な演説は、日本の将来に対する幻想的な夢を伝えていた。1945年9月2日、日本が戦艦ミズーリ号で降伏文書に署名した数分後、マッカーサーはアメリカ国民に向かってラジオ放送した。
「今日、銃声は止んだ。大きな悲劇は終わった。偉大な勝利が勝ち取られた。空はもはや死を降らせることはなく、海は商業のためにのみ使われ、人々は明るい日差しのなか怯えることなく堂々と歩くことができる。今、全世界は平和の静けさを味わっている。今、ここに、神聖な使命は達成された」
「今日、我々は92年前のペリー提督のように東京に立っている。彼の目的は友好、貿易、商業に対して鎖国のベールをとらせ、日本に文明と進歩の時代をもた らすことだった。しかし、悲しい哉、西洋科学の知識は人間の抑圧と奴隷化の道具となった。表現の自由、行動の自由、思想の自由は、教育の抑圧や迷信の強制によって、さらに、暴力によって否定された」
「我々はポツダム宣言で、日本国民がこの奴隷状態から解放されるのを実現すると約束した。私の使命はこの約束を速やかに達成することである。日本軍隊の解体もすばやく実行する」
「今日、自由は攻勢に出ている。民主主義は前進している。今日、ヨーロッパでもアジアでも、屈従から解き放たれた人々は、自由の甘き香りと恐怖からの解放を味わっている」
ペリー提督とマッカーサー
マッカーサーがペリー提督に敬意を表したのは意味深長だ。ペリーは、極東でアメリカの国益と武力を象徴した人物であり、領土拡大を正当化した帝国主義という後戻りのきかない道を開いた人物であったからだ。
ペリーを引きあいに出すことによって、マッカーサーは日本の鎖国の最後の扉を壊し、「品位と正義の原則を具体的に表現した簡単な哲学」(マッカーサー自身の台詞)を日本人の頭の中へ叩きこむつもりでいた。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。