原子爆弾の完成
1945年7月16日、夜明けの5時29分45秒、ニュー・メキシコ州アルバカーキから192キロ離れたアラモゴルド空軍基地で、人類初の原子爆弾の実験が成功した。直ちに、新型の爆弾がいつでも使用可能であると、ポツダムにいたトルーマン大統領に伝達された。
翌日、トルーマン大統領、スターリン、イギリスの首相チャーチルの3人で、ポツダム首脳会議が始まった。ポツダムはベルリンの近くにある。会議は16日間続いた。会議中にチャーチルは、彼の保守党が選挙に破れたため、首脳の座を追い出され、7月28日から労働党の党首アトリーがイギリス代表として出席した。
チャーチルは首相を2度(1940〜45年、1951〜55年)務める。1953年ノーベル文学賞を受けた。
副大統領だったトルーマンは、ミズーリ州の田舎町インディペンデンスの農家で育ち、隣州のカンサス市立の法律学校に2年間通っただけで、高等教育を受けていない。家業の農業に従事した。第一次世界大戦でフランスに出征し、1919年少佐で除隊した。1935年から44年まで、ミズーリ州選出の上院議員として才能を発揮し、1944年、ルーズベルトの副大統領となる。
しかし、ニューヨークの超エリートで大金持のルーズベルト大統領から相手にされず、原子爆弾を製作する特別極秘「マンハッタン・プロジェクト」についてさえも全く知らされていなかった。この秘密はアメリカ史上、最もよく守られた秘密と言われている。
当時の金額で巨額の20億ドルを注ぎ込んだ。ルーズベルトが死去した日の夜、スティムソン陸軍長官がトルーマン新大統領にこの秘密を明かす。
トルーマン大統領の手腕
トルーマンは外交にも全くの素人。それ故、国務省が、海千山千のスターリンやチャーチルと交渉しなければならない新米大統領のために仮想質問と「アメリカの返答」を書いた。その分厚い、濃紺の布のカバーがついた台本を持って、トルーマンはポツダム会議に出席した。
例えば、日本占領統治につき、もしチャーチルか、スターリンが「誰が占領下の日本を支配し、政策を立案するのか」という質問を出したら、大統領は「極東顧問委員会の設立を提案する」と返答する、と。
この極東顧問委員会がのちに「極東委員会」として組織されるもので、スターリンとチャーチルは、これで連合軍が平等に政策決定をすると思っていた。
だが、この委員会は、マッカーサーと国務省に実に厄介な問題を齎(もたら)した。後にマッカーサーが「討論集会」と扱き下ろしたのが、この極東委員会だった。
国務省は、「日本はアメリカの支配下に置かれるべき」であり、また、「分割されるべきではない」とトルーマンに進言している。アメリカだけで占領支配した方が良い理由は、「行政、経済、社会、そして人種のあらゆる点からみて、日本は統一された集団」であるからだと説明した。
これより先、ホプキンズがトルーマンに伝えたように、国務省も「ソ連が樺太、千島列島そして北海道までも占領分割地域として要求してくる」と読んだ。
ソ連に北海道を与える理由は全くないが、「アメリカは樺太、千島列島をソ連領土として分割することは、黙認しなければならないかもしれない」とホプキンズはトルーマンに言った。
事実、この「黙認」は実行され、日本は固有の領土である千島列島をソ連に奪われた。
国務省はトルーマンに、日本を占領する任務は「アメリカ人の連合国軍最高司令官」に授けられるべきである、と強く進言した。このアメリカの姿勢は、もしスターリンが日本占領に部分的にでも参加しようとしたら、手強い敵で、共産主義を嫌悪していたマッカーサーと対決しなければならないことを意味した。アメリカは、このポツダム会議以前に、敗戦国ドイツを分割支配することに同意して、既に後悔していた。
ハリー・S・トルーマンは、決断力と正直さで、今でも高く評価されている大統領。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。